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部長のブログ

大海人皇子〈14〉

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2012年7月21日

 今日は、昨日の『大海人皇子〈13〉』からの続き。

大海人皇子 〈1〉 〈2〉 〈3〉 〈4〉 〈5〉 〈6〉 〈7〉 〈8〉 〈9〉 〈10〉 〈11〉 〈12〉 〈13〉

 壬申の乱に敗れ、この世を去った大友皇子は果たして即位していたのかという問題がある。『日本書紀』はこれを認めていない。これは、『日本書紀』が大海人皇子、後の天武天皇の立場寄りで書かれており、大友皇子を倒して皇位に就いた天武天皇を正統化するためだ。そう指摘した上で、大友天皇の存在を主張し、その本紀を立てた歴史書が江戸時代にできた『大日本史』である。水戸黄門こと徳川光圀が編纂に着手した。

 『日本書紀』では壬申の乱のあった672年を天武元年としているが、実際に即位したのは673年だ。だとすると、天智の死後、天武の即位まで天皇空位の期間が長くなる。そこで、「大日本帝国、万歳!」の明治政府は空隙を嫌ったのか、『大日本史』の説を採用。明治天皇は1870年(明治3年)、大友皇子に対して弘文天皇とおくり名した。その人の死後に贈るから「贈り名」。難しい字を書くと、「諡(おくりな)」だ。「諡号(しごう)」ともいう。また、贈る行為のことを「追諡(ついし)」という。

 以後、文部省(現在は、文部科学省)は、弘文天皇を歴代天皇の一人に数えている。よって、文科省検定のある歴史教科書においては、壬申の乱のあった672年が弘文元年で、673年を天武元年としている。念押しになるが、『日本書紀』では大友皇子の即位を認めていないので、672年が天武元年で、673年を天武2年だとしている。

大海人皇子〈14〉.gif
 672年、壬申の乱で勝利を収めた大海人皇子は飛鳥浄御原(あすかきよみはら)に新たな皇居を築造し、都を造った。飛鳥浄御原宮である。翌673年、ここで即位の式を挙げ、晴れて天武天皇となる。雨降って、地固まる。ここにおいて、中央大豪族のみならず、地方豪族の間にも天皇の権威は、いっそうの高まりを見せる。中央集権化、天皇専制支配体制が確立されるのだ。権力中枢を天皇及び皇族だけで固めた支配体制を学術上、「皇親政治」という。日本史上、天武朝から8世紀初頭まではこの体制であった。

 こんな歌が『万葉集』に所収されている。

 大君は 神にしませば 赤駒の はらばふ田井を 京師(みやこ)となしつ

 この歌意は、こうだ。大君(大王・おほきみ)すなわち天皇は神でいらっしゃるから、馬がひとたび入り込んだら抜け出せないような田んぼでさえも、都に造り変えてしまわれたよ。

 この頃より、天皇の神格化が始まるのである。


 長くなりそうなので、今日のところはこれで終了。続きは、明日にね...。

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プロフィール
(株)タカラコスモス部長
古澤陽一
昭和41年11月、大阪市大正区で3姉弟の末っ子長男として生まれる。大阪市大正区の市立小・中学校を卒業。中学時代は『金八先生』が流行った校内暴力全盛時。
大阪府立大手前高校では、硬式野球部に所属。後、京都に憧れ、立命館大学法学部に学ぶ。ゼミでは、「クレジット・サラ金問題」を専攻。
卒業後、大阪市北区西天満の吉澤司法書士事務所に入所。3年間の勤務の後、株式会社タカラコスモスに入社、現在に至る。
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