大海人皇子 〈1〉
2010年11月 4日
「大海人皇子」、何と読むか。もちろん「たいかいじん」ではなく、「おおあま」。全体的には、「おおあまのおうじ」とか「おおあまのみこ」。673年に即位して「天武天皇」になった人である。
天皇というと、どうも雲の上のさらにその上の存在のような感じがするのだが、この天武天皇、私の中では、なにやら人間くささのする天皇の一人である。
天皇になるべくしてなった、当然のようになったのではなく、天皇の座を奪い取った人なのである。
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大海人皇子を語るに、およそ次の九つがキーワードになるのではないか。
〈中大兄皇子〉〈中臣鎌足〉〈大化改新〉〈額田王〉〈皇太弟〉〈吉野〉〈出家〉〈壬申の乱〉〈飛鳥浄御原〉。
中国では隋に替わって唐王朝になった頃、日本は大和朝廷。蘇我蝦夷(そがのえみし)の子である入鹿(いるか)は、聖徳太子の子で有力な皇位後継者であった山背大兄王(やましろのおおえのおう)とその一族を滅ぼして専権を振るっていた。蘇我氏の専横を打破し、天皇家を中心とする支配の強化と政治改革を計ったのが、世に言う「大化改新」である。
中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)、中臣鎌足(なかとみのかまたり)らが蘇我蝦夷・入鹿らを滅ぼしたのが645年。「ムシゴロシ」のゴロで覚えた方が多いと思う。
単なる権力闘争というものではなく、真に日本の行く末を案じてその変革を願った同志たちの決断、クーデターなのである。というのも、その頃、中国においては、400年にわたる南北朝の対立を統一した隋の後に、高度に中央集権化した唐の成立を見、朝鮮においては新羅(しらぎ)の強大化を感じ取った日本としては、隣国のこのような高度成長は大きな脅威となっていたからである。
蘇我氏を滅亡させた中大兄皇子・中臣鎌足らは、中国帰りの僧旻(そうみん)らから、唐の中央集権国家体制の知識を学び、その国家体制の構想を練る。大化改新の中身は、新政権の内閣改造、昔からのアカがついた飛鳥(あすか)から難波長柄豊碕宮(なにわながらとよさきのみや)への遷都、それに改新の詔(みことのり)であるのだが、「改新の詔」によって政治改革のガイドラインを示したわけである。その内容を探るに、『日本書紀』を参照する必要があるが、いとまがないのでここでは省略する。
ところで、中大兄皇子と大海人皇子は同母の兄弟である。父を舒明天皇、母を皇極天皇に持つ正真正銘のサラブレッドである。歳の差は5才。中大兄皇子の出生は626年で、645年のクーデターを19才の時に起こしたわけである。ということは、その時、大海人皇子は14才。このクーデターに参加していたかは疑問だが、その後の兄の執政については、中臣鎌足とともに常に近い距離に位置し、その政治手腕、その発想、その非情さを目の当たりにしていたと思われる。
「この兄は恐ろしい」、大海人皇子は胸中、常にそう考えていたはずである...。
話が長くなりそうなので、今日のところはこれで止(よ)す。続きは、大海人皇子〈2〉でね...。
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