大海人皇子 〈2〉
2010年11月 5日
改新に伴って、中大兄皇子の母である皇極天皇は、孝徳天皇に譲位したのだが、後に中大兄皇子と孝徳天皇には不和が生じ、実権を握る中大兄皇子は、653年に天皇の反対を押し切って、難波から百官をを従えて飛鳥に戻ることとなる。
天皇はひとり難波に残り、孤独に死すのである。この孝徳天皇の死後、中大兄皇子の母である皇極天皇が再び斉明天皇となるのだが、一旦退位した天皇が再び即位することを「重祚(ちょうそ)」という。「祚」という字は、「位」の意である。日本では現在まで二人だけ。皇極天皇が斉明天皇、孝謙天皇が称徳天皇になった二例しかない。
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皇極天皇→孝徳天皇→斉明天皇、中大兄皇子から見れば、母→叔父→母であり、みな皇子によって擁立された、いわば傀儡(かいらい)。操り人形なのである。ちなみに、孝徳天皇は、皇極天皇(斉明天皇)の同母弟である。
難波において孤独に世を去った孝徳天皇には、有間皇子(ありまのみこ)という子があった。有馬温泉で生まれたから「ありま」という名が付けられたという説もある。中大兄皇子から見れば、叔父の子であるから従兄弟関係である。皇位後継者としては有力候補。されど、皇位は有間皇子には行かなかったのである。当代の権力者たる中大兄皇子が皇位につくのなら、まだしも諦めはつく。しかし、中大兄皇子は皇位にはつかず、斉明天皇が皇位につき皇太子のまま。そのことが有間皇子に皇位野望の夢を捨てさせずにいたのである。
中大兄皇子が即位して、天智天皇となったのは668年。斉明天皇が亡くなった6年後のことである。先の天皇が崩じた後、正式に皇位にはつかず執政することを「称制」というのだが、正式に皇位につけない特段の事情や、天皇不執政の原則に基づく。中大兄皇子が斉明天皇に重祚させて、自らは即位せず、天皇崩御の後もなかなか皇位につかなかったのは、政治的な活動をするにあたり、天皇になるより皇太子のままでいた方が、何かと融通がきくから、というのが歴史学上の通説ではある。が、その真意は定かでない。一説に、孝徳天皇の妻すなわち間人皇后(はしひとこうごう)を奪い取り、禁断の恋愛関係があったからだとも言われている。天皇になれば皇后を決める必要がある。されど、間人皇后だけは、どうしても皇后にはできない事情があったのである。というのも、間人皇女(はしひとのひめみこ)は、孝徳天皇の皇后であるとともに、中大兄皇子の同母兄妹であったから。兄弟姉妹間の婚姻は、たとえ古代のこととはいえ、タブー視されていたのである。
話を有間皇子に戻そう。彼にとって、中大兄皇子は自分を皇位につけさせてくれず、また父、孝徳天皇の皇后である間人皇后、自分に取っては継母を奪い取り、父を憤死させた憎き従兄弟なのである。
有間皇子の胸中を察するに、「隙あらば中大兄皇子を!!」、そう考えていたに違いない...。
話が長くなりそうなので、今日のところはこれで止(よ)す。続きは、大海人皇子〈3〉でね...。
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