大海人皇子 〈5〉
2011年4月22日
懐かしいと思うほどに、ずいぶんと前のことである。このシリーズを書いたのは。2010年の11月4日から7日にかけて、「大海人皇子〈1〉〈2〉〈3〉〈4〉」を書いたのだが、半年近くも前なのである。
ご興味があれば、ぜひ〈1〉~〈4〉までを通読した上で、〈5〉をお読み頂きたい。
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有間皇子の処刑により、とりあえずはわが身の危険の芽を摘んだ中大兄皇子ではあったが、次に皇子の頭を悩ませたのが外交問題である。
中国の唐、朝鮮の新羅の侵略に対し、百済が日本に援軍を求めてきたのである。662年には援軍と軍需品を送るも、翌年に白村江にて唐・新羅の水軍にこてんぱんに敗れてしまう。
白村江での敗戦は、諸々の矛盾が露呈し始めていた改新政治に対する人々の不満を決定的なものとした。よって、664年頃が中大兄皇子政権の最大のピンチであったと言える。まさに、「内憂外患」であった。
「内憂」としては、こういうことが挙げられる。
外交の失敗が内部分裂を引き起こしかねない状況であるということ。この時、中大兄皇子はいまだ皇太子のままで称制をとっており、661年斉明天皇亡きあと皇位が空位で天皇不在の皇太子という不安定な地位にいたからである。かといって、中大兄にはすぐには皇位に就けない事情があった。〈2〉でも触れたが、間人皇女との禁断の恋愛関係があったからである。
とはいうものの、中大兄皇子にとってラッキーなことには、自分と皇位を争えるほどの皇族は、どこを見渡しても見つからないことであった。たった一人を除いては。その一人というのが、このシリーズのタイトルにもなっている大海人皇子その人なのである。
中大兄皇子と大海人皇子は同母兄弟。今のところ、この弟とだけは不仲になってはまずい。中大兄は、そう考えていたであろう。が、その点においては、それほどの心配はしていなかったかもしれない。弟には鸕野讚良皇女(うののさららのひめみこ)をはじめ、何人もの娘を嫁がせているからである。鸕野讚良皇女は、後の持統天皇である。実弟に自分の娘を嫁にやるということは、すなわち叔父と姪が結ばれることを意味する。現代人の感覚ではありえないことだが、古代においては近親間での政略結婚は日常のことであったようだ。
次に、「外患」。
唐と新羅の侵略に備える必要があったのである。防人(さきもり)を置いたり、水城(みずき)や山城を築いたりと。667年には、都を近江に移しているが、近江大津宮への遷都も国防上の理由からであろうというのが歴史学上の一般的な考えである。
というのも、より内陸部の方が、唐・新羅の水軍が今の大阪あたりに上陸しても、距離があるし、琵琶湖を通じて北へ東へと移動できるからである。
話が長くなりそうなので、今日のところはこれで止(よ)す。続きは、明日の「大海人皇子〈6〉」でね...。
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