大海人皇子 〈6〉
2011年4月23日
今日は、昨日の「大海人皇子〈5〉」からの続き。
中大兄皇子にとって、内憂外患の日々が続いた。そして、665年2月には、実妹で禁断の愛の対象者である間人皇女が逝去した。間人皇女はもと孝徳天皇の皇后であった人である。その後、禁断とはいえ、古代のこと、中大兄皇子の妃(きさき)にはなっていた。けれど、中大兄皇子は即位して天皇になったとしても、間人皇女を皇后にすることはタブーであった。そのことが中大兄の即位を妨げていたと推測されるのである。
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668年正月、中大兄皇子はついに即位して天智天皇となる。近江大津宮への遷都の翌年のことである。間人皇女の昇天後、かなりの年月が経ってからのことであった。皇女の葬儀に異例の月日を費やしたこともあるが、唐・新羅の侵略に対する国防に急であったことがいちばんの理由であったと考えられる。
ところで、中大兄皇子と大海人皇子兄弟を語るに、この女性を抜きにしてはいられない。額田王である。『万葉集』においては、「額田王」と表記されたが、歴史書では「額田女王」で、「ぬかたのおおきみ」と読む。
もとは大海人皇子の恋人で、後に天智天皇の妃の一人になった人である。よって、三角関係。といっても、安っぽい三角関係なんかじゃない。日本国のナンバー1、ナンバー2が当事者だ。まさに、日本の頂点の三角関係、スケールが違うのである。
三角関係だと取り沙汰される根拠のような歌が『万葉集』に相聞歌(そうもんか)として巻1、20と21に所収されている。
1)あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る
こう、額田女王が詠むと、
2)紫の 匂へる妹を 憎くあらば 人妻ゆゑに われ恋ひめやも
大海人皇子が、こう返した。
歴史上、あまりに有名な二首である。これまた、万葉の歌らしく、ひねりがないのでわかりやすいが、少しだけ注釈を。これ、668年5月5日、近江蒲生野において天智天皇が大がかりな薬狩りを行ったときのもの。薬狩りとは、男性は鹿狩りをし、女性は薬草摘みをしたあとで、宴会をするもの。
大海人皇子は狩りを、額田女王は薬草を摘んでいるときにバッタリと出くわした時のことを歌っているのである。
話が長くなりそうなので、今日のところはこれで止(よ)す。続きは、明日の「大海人皇子〈7〉」でね...。
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