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部長のブログ

大海人皇子 〈8〉

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2011年4月25日

 今日は、昨日の「大海人皇子〈7〉」からの続き。

 三角関係は他にもあった。天智天皇、大海人皇子、額田女王のは座興のためのフィクションとして片づけてもよい。しかし、こちらのは政治において極めて重大な意味を持つものであった。好きだの嫌いだの、色恋沙汰ではないのである。その三角関係を形成したのは天智天皇、大海人皇子、それに中臣鎌足である。

中臣鎌足.jpg
 大化改新から20有余年の歳月が流れた。思えば、いろいろなことがあった。若かりし頃の中大兄皇子が理想とした、天皇を中心とする中央集権的統一国家づくりをもう一度、リセットしたい。近江大津宮への遷都は、国防上の問題だけでなく、そういった意図もあったのかもしれない。

 ここで、近江朝廷におけるナンバー1である天智天皇、皇太弟でナンバー2の大海人皇子、改新以来ずっとふたりを見守ってきたナンバー3の中臣鎌足、この3人の出没年を見てみよう。

○中大兄皇子(天智天皇)・・・626年~671年
○大海人皇子・・・・・・・・・631年(?)~686年
○中臣鎌足・・・・・・・・・・614年~669年

 中大兄と大海人の歳の差は5歳、中大兄と鎌足の場合は一回りである。大化改新時、中大兄は19歳だったから、鎌足は31歳であったことになる。よって、鎌足は兄弟にとっては、かなりお兄ちゃん格の存在だったわけである。意見を問われれば、的確に答えたであろう。時に励まし、時に諭(さと)し、時には諫(いさ)めもしたであろう。

 ところで、『大織冠伝(だいしょくかんでん)』に記された有名なエピソードをご紹介しよう。
 「大織冠」とは、冠位13階制のときに設けられた冠位のことである。鎌足は死の間際に天智天皇から当時の最高冠位である大織冠と内大臣の官職を授けられ、藤原の氏を賜った。史上、大織冠は鎌足のみ。鎌足の伝記を著した曾孫藤原仲麻呂(恵美押勝)はこれを『大織冠伝』と命名したのである。
 ちなみに、藤原氏に代々伝わった『藤氏家伝(とうしかでん)』のうちの上巻が、この大織冠伝である。後の世で、栄耀栄華を極め、わが世の春を謳歌した藤原一族の始祖が、この鎌足なのである。

 さて、エピソードの話に戻ろう。
 天智天皇が即位した668年のある日、琵琶湖の見える高殿で酒宴を催した時のこと、大海人皇子が長槍を持ち出して広間の板敷を刺して暴れるという事件が起こった。大海人の無礼な振る舞いに憤りを覚えた天智天皇は、捕まえるや、まさにこれを殺さんとした。それを中臣鎌足が強く諫めたので、天皇は思い留まって事無きを得たというのである。

 伝記のことだから、立志伝中の人すなわち鎌足の活躍、功績を誇張して宣伝しようとする向きはたしかにあるだろう。しかしながら、この時既に天皇と皇太弟との間にすきま風が吹いていたことだけは、どうやら史実と異なる作り話ではなさそうである。


 話が長くなりそうなので、今日のところはこれで止(よ)す。

 なんか、ちょっとした歴史本みたいな様相を呈してきたが、これも勉強、勉強。歴史の教科書ならば、わずかに数行で終わるような歴史を深掘りしていくのは、それなりに楽しいものである。よって、当分はこのシリーズ、終わりそうにない。

 次に続く「大海人皇子〈9〉」以降は、また折を見て改めて...。  

☆「部長のブログ」は明日、明後日とお休みを頂きます。4/28(木)のお題は、さて何にしようか...。

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プロフィール
(株)タカラコスモス部長
古澤陽一
昭和41年11月、大阪市大正区で3姉弟の末っ子長男として生まれる。大阪市大正区の市立小・中学校を卒業。中学時代は『金八先生』が流行った校内暴力全盛時。
大阪府立大手前高校では、硬式野球部に所属。後、京都に憧れ、立命館大学法学部に学ぶ。ゼミでは、「クレジット・サラ金問題」を専攻。
卒業後、大阪市北区西天満の吉澤司法書士事務所に入所。3年間の勤務の後、株式会社タカラコスモスに入社、現在に至る。
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