関ヶ原の群像 【パート1】
[ ジャンル:歴史上の人物 ]
2012年4月 6日
日本史上、最も有名な合戦といえば、やはり関ヶ原の戦いだろう。西か東か。どちらに味方すべきか、夜も眠れぬほど真剣に思案したのは戦国大名、小名だけではなかったはずだ。足軽、雑兵、そして商人までもが。
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関ヶ原は、今は岐阜県の不破郡にある一つの町。ここで、天下分け目の合戦が行われたのは安土桃山時代。西暦なら1600年だ。今が2012年だから、412年前の出来事。自分自身がこの世に生を受けてから半世紀近くの時間が経過したことから考えるに、400年ほど前なんて、そんなに大昔のことではないのだ、と感じてしまう。
さて、戦国の世に生きた人々について書いてみたいと思いついた。が、どのような構成にしようか。考えた末に、関ヶ原の戦いに関与した人たちを取り上げていくことにした。結果、タイトルを「関ヶ原の群像」とした次第である。
乱世に終わりを告げた関ヶ原の戦いは、わずか6時間ほどで決着した。だが、それまでの道のりはいかにも長かった。「ひとよでむなし」のゴロ合わせで覚える1467年に始まった応仁の乱以降、1590年に豊臣秀吉が小田原の北条氏を破って全国統一を果たすまで、日本国内はずっと戦乱に継ぐ戦乱の世。やっと国内が静かになったと思うのも束の間、朝鮮出兵が行われた。世に言う、文禄の役、慶長の役である。結局のところ、敗戦に終わった朝鮮出兵から兵士たちが続々と帰還した。1598年、天下人である太閤殿下が身まかったからである。
露と落ち 露と消えにし わが身かな なにはのことも 夢のまた夢
この辞世を詠んで、秀吉は逝った。農民の子から身を起こし、一代で天下を取った秀吉でさえも心残りがあったようだ。ここにおいて、風雲急を告げるかのように時代は動き出すのである。時に、名だたる戦国大名たちは既にこの世にいない。秀吉の主君であった織田信長はもちろんのこと、武田信玄、上杉謙信、斎藤道三、毛利元就、今川義元たちも。
豊臣政権の最高幹部は「五大老」であった。徳川家康、前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家、上杉景勝の5人である。五大老筆頭は、家康。会社で言うなら、副社長だ。政務を実際に執り行っていたのは、「五奉行」。石田三成、増田長盛、浅野長政、前田玄以、長束正家の5人。五奉行筆頭は、三成。会社で言うなら、社長第一秘書といったところか。
関ヶ原の戦いは、家康VS三成のように語られるのが常である。しかし、副社長と社長秘書では格が違いすぎる。家康の向こうを張るほどの器ではなかったのである、三成は。策士、家康が三成を対抗馬にまんまと仕立て上げ、うまく利用したというのが実際のところだろう。
トップ亡き後、事実上の最高権力者は家康であった。けれども、秀吉には子の秀頼がいたし、淀君もいた。豊臣家に恩顧を感じる大名たちも数多い。それに、秀吉は存命中に自分亡き後、秀頼への忠誠に偽りのないことを大名たちに誓わせた。何度も何度も、誓紙を書かせていたのである。
一つ間違えば、我慢に我慢を重ねて営々と築き上げてきた徳川250万石を棒に振る。一か八かの勝負はできない。勝つべくして勝つ。ホトトギスが鳴くまで待った家康は、どのようにして天下を手中にしたのであろうか。そのあたりのことを中心に関ヶ原の群像を描いていきたい。
では、「関ヶ原の群像」をシリーズ化し、次回から一人ずつのお話を展開していくこととする。次回がいつのことになるかは、わからないが...。
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