関ヶ原の群像 【パート2】
[ ジャンル:歴史上の人物 ]
2012年6月22日
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関ヶ原の戦いがあった時点において、既にこの世にいなかった二人。秀吉の身内であるこの二人が生きていたら・・・。あの大戦乱の遠因がこの二人の不存在にあったと言えるかもしれない。
秀吉の異父弟で、秀吉と同じように木下→羽柴→豊臣を姓とした豊臣秀長がその一人。もう一人は、秀吉の甥っ子にあたり、三好→羽柴→豊臣を名乗った豊臣秀次である。
本能寺の変が起こった後に明智光秀を討った山崎の合戦、信長の後継者争いで柴田勝家を滅ぼした賤ヶ岳の戦い、なかなか秀吉になびかない徳川家康と一戦を交えた小牧・長久手の戦いなどなど、秀吉ここ一番の戦いには、常に秀長がいた。秀吉には実に頼もしい弟であったに違いない。その秀長が1591年に他界してしまう。およそ半世紀の生涯であった。乗りに乗っていた秀吉の天下取りに影を落とした最初のできごとである。
同年、またひとつ影が差した。秀吉の愛児、鶴松が3才で夭逝してしまうのである。ここにおいて、秀吉はすぐさまその年の暮れ、甥の秀次を養子とし、後継者とすべく、関白の座を譲る。自らは太閤となるも、全権は与えず、秀吉・秀次の二元政治が行われることとなる。
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ところが、翌々年において淀殿との間に再び実子が誕生する。拾丸(ひろいまる)と称し、後の秀頼である。秀吉にとっては欣喜雀躍するようなできごとが、秀次には悲運の始まりであった。「我が子かわいや」は世の常、天下を秀頼に継がせたい。そう考えた秀吉は、秀頼に対する盲愛が成せるわざか、秀次に謀反の疑いをかけ、関白の職を剥奪の上、高野山に追放したのである。元関白で出家した者は「太閤」ではなく、「禅閤」とよばれたが、特に秀次のことを「豊禅閤」とよぶことがある。
追放劇からわずか一週間後に切腹の命が出て、高野山にて没す。享年28歳の若さであった。なお、秀次の子女、妻妾など三十余名をも秀吉は、京の三条河原においてあの世に送ったと言うから、恐ろしい限りだ。
秀吉没後に残ったのは、幼少の秀頼と母の淀君、そして正妻の北政所。もし、秀長と秀次が存命であったなら、違った歴史が刻まれていたのかもしれない。
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