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部長のブログ

関ヶ原の群像 【パート3】

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2012年9月15日

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 関ヶ原の戦いが起こった原因の一つに、前田家が大きく関係していると言える。とりわけ、加賀百万石の礎を築いた前田利家の存在が大きい。存在と言うよりは、不存在という方が正しいのだが・・・。


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 NHKの大河ドラマ『利家とまつ』では、唐沢寿明が利家を、松嶋菜々子がまつを演じたのをご存じの方も多いだろう。利家の幼名は犬千代。尾張の荒子城主・前田利春の次男坊だから、そこそこの家柄だ。豊臣秀吉と同じく、織田信長を主君と仰いだが、農民の子であった秀吉を初めの頃は「サル」と呼び、嘲笑の目で見ていたものと思われる。が、秀吉がめきめきと頭角を現し、最終的には秀吉政権の大老職を務めたわけだから、秀吉の臣下になったことになる。

 この人、若い頃は血気盛んで、長槍を持って大暴れしたから、「槍の又左衛門」の異名あり。数多の戦功を挙げたが、信長から2年ばかり干されたことがある。自分に無礼を働いた信長の茶坊主・拾阿弥を斬殺したからである。この間、利家は織田家を離れ、流浪生活を余儀なくされている。

 本能寺の変で信長亡きあと、秀吉と柴田勝家の間に跡目争いが勃発。この時、利家の苦悩は想像に難くない。秀吉とは、今や兄弟のような間柄。公私ともに付き合いが深かった。勝家は「おやじ様」と呼ぶべき存在だったからである。秀吉と勝家が激突した賤ヶ岳の戦いでは、苦慮した挙げ句、利家は勝家についた。が、結局のところ、秀吉側に回ったことから考えるに、さすが数えきれぬほどの死線をくぐり抜けてきただけあって、機を見るに敏な人であったことがうかがえる。

 ところで、関ヶ原の戦いが起こった時点において、利家はもうこの世にはいない。では、なぜこの大乱が起こった原因の一つに、この人が関係したと言えるのか。それは、この人の死が関係しているのである。

 秀吉病没後、豊臣秀頼はまだ幼少であった。よって、豊臣政権の政務は、徳川家康・前田利家・毛利輝元・宇喜多秀家・上杉景勝の五大老と、石田三成・増田長盛・浅野長政・前田玄以・長束正家の五奉行が執った。とはいえ、石高を見ても、また五大老筆頭であったことを考えても、徳川家康が頭一つ以上飛び抜けていたことは歴然たる事実であった。

 その家康が、秀吉の残した「御掟(おんおきて)」を墓の水が乾かぬうちから次々と破っていく。その専横ぶりをかろうじて意見できる人は、前田利家のみであったのだ。秀頼の補佐役という名の下に。その実力者がこの世を去ったわけだから、家康としては目の上のたんこぶ、いや目の横のたんこぶがなくなり、天下取りに邁進できたのである。


 長くなりそうなので、今日のところはこれで"止(よ)す。この前田家のお話の続きは、明日にね...。

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プロフィール
(株)タカラコスモス部長
古澤陽一
昭和41年11月、大阪市大正区で3姉弟の末っ子長男として生まれる。大阪市大正区の市立小・中学校を卒業。中学時代は『金八先生』が流行った校内暴力全盛時。
大阪府立大手前高校では、硬式野球部に所属。後、京都に憧れ、立命館大学法学部に学ぶ。ゼミでは、「クレジット・サラ金問題」を専攻。
卒業後、大阪市北区西天満の吉澤司法書士事務所に入所。3年間の勤務の後、株式会社タカラコスモスに入社、現在に至る。
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