関ヶ原の群像 【パート4】
[ ジャンル:歴史上の人物 ]
2012年9月16日
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秀吉没後8カ月で利家は逝った。少し前から利家は隠居し、家督を継いでいたのが前田利長だ。父の死により、五大老の一人に列せられた。この時、利長は37歳。既に十分な戦歴を経てきているから、家康の対抗馬としての素養はあるかに見えた。
1598年9月に秀吉が亡くなった後、その翌正月に豊臣秀頼は伏見城を出て、前田利家とともに大阪城に入った。家康は、この時伏見の自邸で政務を見ている。1599年3月に利家が亡くなるとすぐ、家康は伏見城に入り、またその年の10月には伏見城に次男秀康を配置し、自分は大阪城西の丸に入る。家康は、伏見と大阪の二城ににらみをきかせたわけである。
この前後に、家康を除く4人の大老たちが国許に帰って行った。前田利長は加賀、上杉景勝は会津、宇喜多秀家は備前、毛利輝元は安芸に帰国したのである。朝鮮出兵、秀吉と利家の逝去、それに豊臣秀頼の擁護などがあり、みな領国内の施政に専念できていなかったからだ。家康にとっては、千載一遇のチャンス到来である。もはや、伏見と大阪には最高権力者たる家康にお追従をする者がありこそすれ、もの言う者は誰もいない。ここにおいて、家康の謀略が本格的に開始されるのである。
帰国して間もない前田利長に謀反の疑いありとの密告があった。利長には身に覚えはない。家康は、これ幸いと利長討伐のため、出兵準備に取りかかる。4人の大老が大阪不在であったから、合議を要することなく、独断と偏見で出陣命令が出せたのだ。
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これに対し前田家は、紆余曲折はあったものの、最終的には受けて立つ姿勢を見せなかった。使者を送り、弁明を重ねる。家康はこれを了承するも、利長に人質を要求。人質は、利長の母、まつ(芳春院)である。まつはこれを拒否しない。利長と家康では、器量に違いがありすぎることを理解していたからである。前田家存続のため、進んで人質の任を引き受けた。家康は芳春院をすぐさま江戸に送る。人質を自分の領国に送ったのだから、豊臣政権をないがしろにした行為であったわけである。
もし、利長が家康と一戦を交えていたら・・・。おそらくは、関ヶ原の戦いはなかったであろうことが推察される。天下分け目の戦いは、もう少し早く、別の場所でなされたものと考えられるのである。ここで、改めて関ヶ原の戦いが起こったことと、前田家との関係性を整理してみよう。
一、家康と唯一、互角に渡り合える前田利家が亡くなったこと。
一、前田利長と家康では、器量に違いがありすぎたこと。また、利長もそのことをわきまえて、無茶をしなかったこと。
一、まつ(芳春院)の冷静沈着な情勢判断が働いたこと。
これらのことが相まって、天下分け目の戦いが、少し先に延びたと言えるだろう。さすが江戸時代における最大級の大大名。加賀百万石の前田家は、己の生きる道を悟るのに敏で、先見の明があったのだ。
さて、雨を降らせて、地固まるのを狙ったわけだが、前田にはするりと体をかわされた。前田が徴発に乗ってこないから、家康はある意味肩すかしを食ったわけだ。天下取りの権謀術数をめぐらす家康が、次に狙った相手とは・・・。
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