関ヶ原の群像 【パート5】
[ ジャンル:歴史上の人物 ]
2013年2月10日
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加賀の前田には、するりと逃げられた家康が次に狙った相手とは。
五大老で、残るは会津の上杉景勝、備前の宇喜多秀家、安芸の毛利輝元だが、誰にしようか。思案している最中、家康のもとに不穏な動きありとの密告が入る。国許に戻った上杉が領内で城郭の新設や修理、道路や橋の普請、兵糧・武具の備蓄、人集めと、軍備増強に余念がないというのだ。
前田と同じく謀反の疑いをかけ、上杉討伐の大義名分を得た家康は、今度も慌てない。先ずは使者を送り、謀反の意なければ弁明のため上洛をせよ、と促したのである。されど、上杉は言を左右にしてなかなか動こうとしない。
そして、家康側からの詰問状に対する上杉側の返書が会津遠征の口火を切ることとなる。返書は世に『直江状』とよばれ、直江兼続が認(したた)めたもの。直江兼続については、NHK大河ドラマ『天地人』の主人公であることをご存じの方もおられよう。
ここで、上杉家について、少し触れてみたい。武田信玄と数度にわたり川中島の合戦をした上杉謙信には子がなかった。生涯、妻をめとらなかったからである。その謙信没後に、景勝と景虎の間に家督争いが生ずる。世にいう「御館(おたて)の乱」である。
景勝は謙信の姉(仙桃院)の子だから、甥に当たる。景虎は北条氏康の子だ。謙信はこのふたりを養子にしていたのだ。戦いを制したのは、景勝。晴れて、跡目を継ぐこととなる。
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織田信長の死後、豊臣秀吉に臣従した上杉景勝は1587年に豊臣姓を与えられ、1595年には小早川隆景が隠居したことにより、五大老に任命されている。また、1598年には秀吉から120万石の加増を受け、先祖伝来の越後から会津に移封されたので、「会津中納言」の異名を持つ。
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この景勝に若年の頃から形影相沿うように近侍したのが直江兼続である。その有能ぶりを秀吉に買われ、わが家来にと誘われた人物で、景勝とともに豊臣姓を下賜されている。また、秀吉は米沢30万石を与えたから、兼続は諸侯待遇を受けたわけである。直属の家臣ではなく、陪臣(大名の家臣)に豊臣姓と30万石という大封を与えたのだから、超ド級の扱いと言ってもよいだろう。
つまり、直江兼続という人は、上杉家の家老でありながら、中規模の大名ということになる。今なら、日本で5本の指に入る超大企業の副社長と、関連企業(世間的に見れば、こちらも大企業)の社長を兼務していることになる。
そんな兼続が書いた家康への返書、『直江状』とは?・・・。
長くなりそうなので、今日のところはこれで"止(よ)す。この続きは、明日にね...。
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