関ヶ原の群像 【パート7】
2013年10月 3日
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関ヶ原の戦いが、なぜ起きたか。このような指摘がある。既に豊臣政権下において、その発生原因は徐々に醸成されており、それを徳川家康がうまく利用したのだ、と。
豊臣政権を動かしていた中心は、トップの秀吉と五大老、そして五奉行だ。家康は五大老筆頭で、石田三成は五奉行筆頭であった。秀吉子飼いの家臣は、もちろん三成だけではなかった。賤ヶ岳の七本槍に数えられた加藤清正や福島正則もいれば、黒田長政、浅野長政と数えあげれば多数いる。秀吉を天下人にした武功は数々あれど、彼らはあくまで戦闘部隊であり、表向きの政治の場に登場することはなかった。
知行と石高はそこそこある大名として出世はしたが、豊臣政権の中枢には位置しない。そんな彼らのことを武断派というのに対し、三成など行政に携わる者たちのことを文吏派という。武断派は、文吏派のことが腹立たしくてしかたがなかった。とりわけ、三成に対しては憎悪の念すらある。さしたる武功もないのに、そのくせ秀吉に重用され、筆一本で命令を下す、世渡り上手な腰抜けめ。そんなふうに忌み嫌っていたのである。
また、三成ら文吏派は豊臣政権の安定のため専制的中央集権化を急ぐあまり、諸大名の行動には常に目を光らせていた。何か落ち度があるごとに秀吉に讒言(ざんげん)する三成は、その点でも嫌われた。武断派の大名たちが、その被害者になったこともしばしばで、秀吉の逆鱗に触れたとき、間に立って取りなしたのが家康であった。だから、三成憎しの武断派の面々は、家康には少なからず恩義と借りがあった。
ただ、家康にしても積極的に貸しを作ろうとしたわけではない。豊臣政権の中央集権化はとりもなおさず諸大名の弱体化を伴うので、最も不利益を被るのが自分であることを心得ていたにすぎない。わが身に降りかかる火の粉を払うべく、武断派の勢力を温存させようとしたのである。
三成ら文吏派のターゲットは、やはり家康であった。中央集権化に最も邪魔な存在であったからだ。つまり、豊臣政権には大きく2つの動きが対立していたことになる。大名たちの独立性をできるだけ奪いつつ、中央集権化させようとする動きが1つ。これは文吏派の動きであり、中央集権派とも言える。一方、豊臣政権に服従はするのだが、あくまで大名としての独立性は固持しようとする動きの担い手が武断派で、こちらは地方分権派とも言える。武断派に属する者ではなかったが、まさしく地方分権派の筆頭が家康であったわけである。
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なお、家康は天下を手中に収めると、中央集権化を推し進めた。戦国の世に終わりを告げれば、文吏派と武断派の対立が起こるのは世の常。徳川政権においても、それは例外ではなかった。だが、家康は「鳴くまで待とう」で、急ぎはしなかった。慌てずに中央集権を進行させ、徳川260余年の礎(いしずえ)をゆっくりと築いた。豊臣政権の失敗を目の当たりにしていたからである。
長くなりそうなので、今日のところはこれで終了。続きは、明日のことに...。
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