高瀬舟 【前編】
2013年10月17日
京都の街をゆっくりと流れる高瀬川は、河原町探検隊をしていた私に青春の日々を思い出させる川である。川に映るネオンの明かりが、やけに古都風情を醸し出す。木屋町通と平行にその西側を南北に流れる川なのだが、北から流れ、流末は南。木屋町からは遠く離れた九条通と十条通の間あたりで鴨川に合流する。高瀬川と、本流である鴨川の間にもう一つ川がある。あまり知られてはいないが、みそそぎ川という。先斗町歌舞練場界隈などは、学生時代に庭のように闊歩したものである。
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ところで、今日のお題の「高瀬舟」は、江戸時代に高瀬川を頻繁に往来した小舟のことである。高瀬川は物流のために造られた運河であった。現在は水深が浅いが、当時はそれなりに水量があったに違いない。物ではなく、人を運ぶこともあった。
運ばれたのは、京都町奉行所において遠島を申し渡された罪人であった。大阪までは川で護送され、あとは海で遠い島へと流されたのだろう。大阪まで運んだのは、京都町奉行所の同心。だが、同心が高瀬船を漕いだとは考えにくい。船頭がいたはずだ。よって、少なくとも3名が乗船していたと推測される。
時は徳川の世、この高瀬川を上下する小舟を舞台に二人の男を描いたのが『高瀬舟』だ。作者は森鴎外。原作は船頭を特記しないが、映画ではビジュアルの関係で登場する。だから、3人の船旅を映し出すことになる。
森鴎外がこの短編小説を『中央公論』から世に送り出したのが、1916年(大正5年)1月のこと。だから、第一次世界大戦の真っ只中であった。1915年(大正4年)1月、日本の大隈内閣は中国の袁世凱政府に対華二十一か条の要求をつきつけ、5月には最後通牒を発して、これを承認させている。
日英同盟に基づきドイツに宣戦布告していた日本軍は、中国におけるドイツ権益を山東省や青島(チンタオ)を占領することによって手中に収めていたのだが、さらなる権益拡大を企図してのことであった。5月9日は、中国人にとっては国恥記念日だとされる所以(ゆえん)である。
こういう背景があってか、『高瀬舟』は時世を揶揄(やゆ)しているかのような内容になっていると言えなくもない。陸軍省医務局長という立場上、直言こそ避けてはいるが、明らかに「知足」をテーマにしながら日本軍の飽くなき欲望を批判していることがうかがえる。知足とは、足るを知るで、これで十分じゃないかということだ。日本軍は、不十分であったから中国の政情紛糾に乗じたわけである。
「庄兵衞はただ漠然と、人の一生というような事を思ってみた。人は身に病があると、この病がなかったらと思う。その日その日の食がないと、食って行かれたらと思う。万一の時に備える蓄えがないと、少しでも蓄えがあったらと思う。蓄えがあっても、またその蓄えがもっと多かったらと思う。かくの如くに先から先へと考えて見れば、人はどこまで往って踏み止まることが出来るものやら分からない。それを今目の前で踏み止まって見せてくれるのがこの喜助だと、庄兵衞は気がついた。
庄兵衞は今さらのように驚異の目をみはって喜助を見た。この時庄兵衞は空を仰いでいる喜助の頭から毫光がさすように思った。」
長くなりそうなので、今日のところはこれで終了。続きは、明日のことに...。
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