「郵便認証司」なる国家資格をご存じだろうか?たいていの方はご存じないと思う。内容証明郵便はどうだろうか?聞いたことはあるけど、実際に出したことや受け取ったことはないという方が大半だろう。
2010年2月20日

「郵便認証司」なる国家資格をご存じだろうか?たいていの方はご存じないと思う。内容証明郵便はどうだろうか?聞いたことはあるけど、実際に出したことや受け取ったことはないという方が大半だろう。
2010年2月20日
今日は、昨日の『「歩留まり」の考察 【パート2】』からの続き。
【パート2】で私、歩留まり(率)と成約率は似て非なるもの、と書いた。今回は、当社が現在、分譲販売中の"コスモスエコタウンすみれガ丘"を例にとってお話しすることにしよう。
2010年2月13日
昨日の『「歩留まり」の考察 【パート1】』からの続き。
不動産業界における「歩留まり」について。
私、業界人17年になるが、ハッキリ言って「歩留まり」を口にした方にお目にかかった機会は非常に少ない。わがタカラコスモスの青野社長とあとわずか数人。どうもこの業界は、決まった・こけたの話ばかりが多いような気が...。
2010年2月12日
「歩留まり」ということばを私が初めて耳にしたのは学生時代であるが、どうもピンと来なかったね。かなり、意味深なことばである。正直なところ、今日においてもいまだ、その正鵠(せいこく)を射た気になれない。このことばくらい、難しいと思った日本語はないと言っても過言でない。というのも、このことば、使う人と「TPO」によってかなりその意味を異にするからである。
2010年2月11日
『「である」ことと「する」こと』は、大阪生まれの政治学者である丸山眞男(1914年3月22日 - 1996年8月15日)の著で1961年に刊行された『日本の思想』の一節である。有名な文章で、その発想や論点、批評は今日においても色褪せない。私ごときが、その内容を抜粋すると失礼なので、敢えて原文のまま掲載する。
【パート1】では「権利の上に眠る者」を紹介したが、今回の【パート2】では、順番通りに「近代社会における制度の考え方」を紹介する。
近代社会における制度の考え方
自由人ということばがしばしば用いられています。しかし、自分は自由であると信じている人間は、かえって、不断に自分の思考や行動を点検したり吟味したりすることを怠りがちになるために、実は自分自身の中に巣食う偏見から最も自由でないことがまれではないのです。逆に、自分が「とらわれている」ことを痛切に意識し、自分の「偏向」性をいつも見つめている者は、なんとかして、より自由に物事を認識し判断したいという努力をすることによって、相対的に自由になり得るチャンスに恵まれていることになります。制度についても、これと似たような関係があります。
民主主義というものは、人民が、本来、制度の自己目的化―物神化―を不断に警戒し、制度の現実の働き方を絶えず監視し批判する姿勢によって、初めて生きたものとなり得るのです。それは民主主義という名の制度自体についてなによりあてはまる。つまり自由と同じように民主主義も、不断の民主化によって辛うじて民主主義であり得るような、そうした性格を本質的に持っています。民主主義的思考とは、定義や結論よりもプロセスを重視することだと言われることの、最も内奥の意味がそこにあるわけです。
このように見てくると、債権は行使することによって債権であり得るというロジックは、およそ近代社会の制度やモラル、ないしは物事の判断の仕方を深く規定している「哲学」にまで広げて考えられるでしょう。
「プディングの味は食べてみなければ分からない。」という有名なことばがありますが、プディングの中に、いわばその「属性」として味が内在していると考えるか、それとも、食べるという現実の行為を通じて、美味かどうかがそのつど検証されると考えるかは、およそ社会組織や人間関係や制度の価値を判定する際の二つの極を形成する考え方だと思います。身分社会を打破し、あらゆるドグマを実験のふるいにかけ、政治・経済・文化などいろいろな領域で「先天的」に通用していた権威に対して、現実的な機能と効用を「問う」近代精神のダイナミックスは、まさに右のような「である」論理・「である」価値から、「する」論理・「する」価値への相対的な重点の移動によって生まれたものです。もし、ハムレット時代の人間にとって"to be,or not to be"が最大の問題であったとするならば、近代社会の人間には、むしろ"to do,or not to do"という問いが、ますます大きな関心事になってきたといえるでしょう。
もちろん、「『である』こと」に基づく組織(例えば、血族関係とか、人種団体とか)や価値判断の仕方は、将来とてもなくなるわけではないし、「『する』こと」の原則があらゆる領域で無差別に謳歌されてよいものでもありません。しかし、私たちはこういう二つの図式を想定することによって、そこから、具体的な国の政治・経済その他様々の社会的領域での「民主化」の実質的な進展の程度とか、制度と思考・習慣とのギャップとかいった事柄を測定する一つの基準を得ることができます。そればかりでなく、例えば、ある面でははなはだしく非近代的でありながら、他の面ではまた、おそろしく過近代的でもある現代日本の問題を、反省する手がかりにもなるのではないでしょうか。 以上
一見、難しそうに見えるが、何回も何回も読んでいるうちに、ああ、こういうことを言いたいのかあ、というふうに「見えてくる」ので何回も読んでみてほしい。
「価値」の問題については、「である」から「する」への移動は確かにあるよね。特に、人間としての「価値」。現代社会において、某は「~である」ということよりは、「~をした」ということの方が、はるかに比重が高い。よくよく考えてみれば、日本人で「である」ことが通用するのは、もはや天皇家のみではなかろうか。
ところで、"to be ,or not to be"。このフレーズを、この話の展開に引いてくるところがシブイ。ご存じの方もおられようが、"To be or not to be,that is the question."これは、シェークスピアが書いた、世界で最も有名な戯曲、つまり劇の脚本である『ハムレット』の中に出てくるセリフ。その和訳については、諸説紛々としている。「生くべきか、死すべきか、それが問題だ。」が今日、一般的ではあるが、劇の流れからすると、「(父の敵クローディアスに)復讐をすべきか、すべきでないか」ともとれる。果たして、シェークスピアの真意やいかに!?....。
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2010年2月 4日
『「である」ことと「する」こと』は、大阪生まれの政治学者である丸山眞男(1914年3月22日 - 1996年8月15日)の著で1961年に刊行された『日本の思想』の一節である。有名な文章で、その発想や論点、批評は今日においても色褪せない。私ごときが、その内容を抜粋すると失礼なので、敢えて原文のまま掲載する。
今回の【パート1】では、順番通りに「権利の上に眠る者」から紹介する。
「権利の上に眠る者」
学生時代に末弘厳太郎先生から民法の講義を聞いた時、「時効」という制度について次のように説明されたのを覚えています。金を借りて催促されないのをいいことにして、ねこばばをきめこむ不心得者が得をして、気の弱い善人の貸し手が結局損をするという結果になるのは、ずいぶん不人情な話のように思われるけれども、この規定の根拠には、権利の上に長く眠っている者は民法の保護に値しないという趣旨も含まれている、というお話だったのです。この説明に、私はなるほどと思うと同時に、「権利の上に眠る者」ということばが妙に強く印象に残りました。今考えてみると、請求する行為によって時効を中断しない限り、単に自分は債権者であるという位置に安住していると、ついには債権を喪失するというロジックの中には、一民法の法理にとどまらない極めて重大な意味が潜んでいるように思われます。
例えば、日本国憲法の第十二条を開いてみましょう。そこには「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。」と記されてあります。この規定は基本的人権が「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」であるという憲法第九十七条の宣言と対応しておりまして、自由獲得の歴史的なプロセスを、いわば将来に向かって投射したものだといえるのですが、そこにさきほどの「時効」について見たものと、著しく共通する精神を読み取ることは、それほど無理でも困難でもないでしょう。つまり、この憲法の規定を若干読みかえてみますと、「国民は今や主権者となった、しかし主権者であることに安住して、その権利の行使を怠っていると、ある朝目ざめてみると、もはや主権者でなくなっているといった事態が起こるぞ。」という警告になっているわけなのです。これは大げさな威嚇でもなければ、空疎な説教でもありません。それこそ、ナポレオン三世のクーデターからヒットラーの権力掌握に至るまで、最近百年の西欧民主主義の血塗られた道程がさし示している歴史的教訓にほかならないのです。
アメリカのある社会学者が、「自由を祝福することはやさしい。それに比べて、自由を擁護することは困難である。しかし自由を擁護することに比べて、自由を市民が日々行使することは更に困難である。」と言っておりますが、ここにも基本的に同じ発想があるのです。私たちの社会が、自由だ自由だと言って、自由であることを祝福している間に、いつの間にかその自由の実質は空っぽになっていないともかぎらない。自由は置物のようにそこにあるのでなく、現実の行使によってだけ守られる、言い換えれば、日々自由になろうとすることによって、初めて自由であり得るということなのです。その意味では近代社会の自由とか権利とかいうものは、どうやら生活の惰性を好む者、毎日の生活さえなんとか安全に過ごせたら、物事の判断などはひとにあずけてもいいと思っている人、あるいはアームチェアから立ち上がるよりも、それに深々とよりかかっていたい気性の持ち主などにとっては、はなはだもって荷やっかいなしろものだと言えましょう。 以 上
なるほど、その通り!!今日、自由や権利を当たり前のように享受しているが、「である」ことに安住していてはダメなのである。不断の努力と行使を「する」ことが必要なのだ。何も、自由や権利を放棄する必要などないが、気持ちと意気込みだけは、「不自由」「無権利」の状態に自分自身を追い込んでゼロスタートをすれば、私もあなたも、きっと何かができるのでは...。
※『「である」ことと「する」こと』は、今回【パート1】としておりますが、【パート6】まで記事を掲載する予定です。カテゴリーについては、【パート1】では「文学」「法学」「政治・経済」の3種にしておりますが、以後の掲載が同一になるとは限りません。但し、「文学」のカテゴリーには必ず入れる予定です。
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2010年1月14日